足立の昔がたり
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20りっぱな松を切らずに、場をおさめた粋いきなはからいに、光圀さまはなんとすばらしい方だと、お供とものもののみならず付ふきん近の村人たちも、たいそう感かんげき激したという。そのときから水戸藩では、江戸入りのときには必かならず、千住の清亮寺の門の前でひと休みするようになったという。そして人びとは、いつとはなしにこの松を「やりかけ松」と呼ぶようになった。 清亮寺は、やりかけ松のある寺として有名になり、お参まいりする人でにぎわったそうだ。この松は昭和十三年(一九三八)ころまでりっぱなすがたを保っていたけれど、残ざんねん念なことに枯かれてしまったよ。そのときの年ねんりん輪調ちょうさ査で、樹じゅれい齢三百五十年以いじょう上経けいか過していることが明らかになった。そして切り株かぶの一部は、今も清亮寺の門内に保ほぞん存されているよ。※徳川ご三家↓江戸時代において徳川将しょうぐん軍家に次ぐ地位を持っていた尾おわり張 (愛あいち知県けん)、紀きい伊(和わ歌か山やま県けんと三みえ重県けんの一部)、常ひたち陸(茨いばらき城県けん) の徳川家のこと。

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