足立の昔がたり
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ふたつめは、もう少し時代が下がって、幕ばくまつ末のころのできごととして語られている。このお地蔵さまは、実は彰しょうぎたい義隊ゆかりのもの……という話だ。彰義隊というのは、二百六十五年続つづいた江戸幕ばくふ府の政せいけん権を朝ちょうてい廷に※返上した翌よくとし年に、最さいご後の将軍である慶よしのぶ喜の護ごえい衛と江戸の警けいび備の名目でつくられた軍ぐんたい隊のようなものだ。慶けいおう応四年(一八六八)、五月十四日の夜から上野の山に立てこもった彰義隊は、激はげしい戦たたかいのすえ、官かんぐん軍に敗やぶれてしまった。隊員たちは、翌十五日、三みかわしま河島の方から東とうえいざん叡山寛かんえいじ永寺領りょうのある足立をめざして逃のがれはじめた。ある者は民みんか家に隠かくれ、ある者は変へんそう装して追っ手から逃れようとしたが、中には傷きずついた者も多く、けしてかんたんなことではなかった。官軍はこうした隊員を捕とらえるために、千住大橋の橋板を全部はずして、渡わたれないようにしたという。きびしい警備をくぐり抜ぬけて、足立入りに成せいこう功する者もいたが、周しゅうい囲の目もあって、だるま塚つか(江こうほく北)で自害したり、捕えられて処しょけい刑された38

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