足立の昔がたり
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67ふつうの家は板いた葺ぶきや草葺きだった。そして江戸時代になり、瓦葺きは禁きんし止されてしまった時期があった。ところで、「火事とけんかは江戸の花」といわれたほど、江戸は火事が多いところだった。そこで、「いろは四十八組」の火消しができ、火ひよけち除地や広ひろ小こうじ路が造つくられた。そして、八代将しょうぐん軍吉よしむね宗のとき、燃もえにくい屋根にするために瓦葺き禁止令れいが廃はいし止され、瓦が使われるようになった。その時代には、隅すみ田だ川がわべりの瓦かわらまち町や今いまど戸町ちょう(今の台たいとう東区く浅あさくさ草橋ばし、今戸)あたりで瓦が盛さかんに焼やかれていたが、江戸の町が発はってん展するにつれて家が増ふえ、窯かまから出る煙けむりが問題になり、原げんりょう料の土も採とりにくくなってしまった。そこで、土が手に入れやすく、瓦を舟ふねで運ぶのに便べんり利な別べつの場所に移うつろうということになって、見つかったのが、足立の中なかがわ川べりだった。中川べりは、隅田川べりと同じように、川が運んできた土砂の堆たいせき積し※た土地で、そこには多たりょう量の粘ねんど土が含ふくまれている。

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