足立の昔がたり
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70さっそく、宮城に戻もどって生家の土地を掘ほりおこしてみると、これが荒木田土で、 作りに適していた。 製造所で得えた技ぎじゅつ術と、地元から産さんする荒木田土と、荒川の水すいり利を※生かして本ほんかくてき格的に 作りをはじめたのが、宮城村の下しもかわ川馬うま次じろう郎だといわれている。彼かれの焼いた は、明治十年(一八七七)内ないこく国勧かんぎょう業博はくらんかい覧会で内ないむ務大だいじん臣褒ほうしょう賞を得たほどだった。こうしたことがきっかけとなって、宮城に隣りんせつ接する堀ほりのうち之内・本もとき木・小おだい台などにも 工場が次つぎとできた。そして、明治すえには最さいせいき盛期を迎むかえ、工場の数も十五、六となり、製法も手作りから機きかいか械化され、東京府屈くっし指の 生せいさんち産地となったのだ。ところが、明治四十三年(一九一〇)の洪こうずい水をきっかけに荒川放水路(今の荒川)が掘くっさく削さ※れることになり、河かせんしき川敷にあった数工場が取とり払はらわれてしまった。また、大正十二年(一九二三)の関かんとう東大だいしんさい震災で、 造りの建物の多くが倒とうかい壊したため、 を使った建築は下火となり、製造も減へってしまった。そのうえ、荒木田土が地元に少なくなり、よそから土を買うことになっ

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