足立の昔がたり
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放水路ができるまでは、たいへんな工事だった。それこそ明治の終わりから昭和のはじめまで、実に十九年もかかった大事業だ。その工事で荒川堤の一いちぶ部がこわされて、約七百本の桜が切られてしまった。もちろん保ほぞん存の動きもあって、新たに植えられた苗なえぎ木もあったが、大正時代に入ると、もう昔のような桜のトンネルは見られなくなった。残のこった木も年ねん弱っていき、そのうち太平洋戦せんそう争がはじまった。戦争の後、人びとは食べることで、せいいっぱいだった。煮にた炊きする燃ねんりょう料も不ふそく足して、わずかに残った桜の木も、ほとんどがまきになってしまった。生きていくためには、しかたがなかったのだ。けれど、昔、アメリカに贈った桜は、そのときもきれいに咲いていた。昭和二十七年(一九五二)、日本とアメリカは、仲なかよく74

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