足立の昔がたり
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新しいお店は繁はんじょう盛し、喜右衛門の家は「とうふや」という屋号で呼よばれた。しかし残ざんねん念なことに、昔はたくさん咲いていた桜草も、次から次へと掘りおこされたり、環かんきょう境の変へんか化によって、しだいに減げんしょう少していき……現げんざい在では、その跡あとかたさえ見ることはできない。桜草に関かんしては、江戸時代に編へんさん纂された『新しんぺん編武むさし蔵風ふどき土記』や『江戸名所花はなごよみ暦』に、鹿しかはまむら浜村・鹿しかはま浜新しんでん田(野や新しんでん田)の地名と共ともに、荒あら川かわべりに咲き誇っていた記きろく録が残のこされている。また、都立足立新田高校校歌の一いっせつ節に、桜草が歌い込こまれているよ。※奉行→幕ばくふ府のいいつけで、政せいじ治や裁さいばん判の仕事をした一番上の役の名。また、 その役の人。84

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